泊まれる図書館。
夏を過ぎた頃
光葉と一緒に天神にある「 ジュンク堂 」へ行き
哲学コーナーでピンときた本があったので買い物かごに。
他のコーナーでも気になる本を入れてきたので
かごの中には全部で6冊くらいの本が入っていました。
ふたりでエスカレーターを下っていると
光葉にこんなことを言われました。
「 さっきすれ違った男の人に
ずっと見られてたの気づいてた? 」
お気に入りの本がいっぱい見つかった喜びで
まったく周りが見えていなかったわたくし。
「 テツさんが持ってたかごを見て
その後に顔を見て、またかごを見て
で、また顔を見直して、って。
たぶんこんな真っ黒でヒゲの人がなんで!?
って思ったんだろうね(笑)」
そんな偏見に満ちた目で見られがちなのですが
わたくしこう見えて結構本が好きでして。
ジャンルはまったく問わずで。
このときのように月に一度は
品ぞろえ抜群な天神のジュンク堂に行っては
気になる本はためらわずに買うという
自分にとっては最高なお楽しみを決行しています。
そんな自分が
ずっと行きたかった場所へ、最近ついに。
佐賀県にある、泊まれる図書館『 暁 』!
泊まれる図書館というフレーズだけで
妄想がどこまでも広がっていってしまうのに
その建物と空間はこんなにも素敵なんですよー!
店主の白石さんとは1年ちょっと前
糸島の大好きなゲストハウスのひとつ
『 いとより 』でのご飯会でお会いしていたので
それ以来の再会となりました。
個人の想いが何の遠慮もなく投入された
場所や作品、組織、またはその人自身に出逢うと
何かが動き出す、何か面白い展開が始まる
予感のような気配のようなものを感じるのですが
『 暁 』と白石さんからは、もうまさにで。
で、インスピレーション湧きまくる
素敵な本とも出逢えました。
何気なく手にとった
長田弘さんの「 世界は一冊の本 」という詩集。
『 世界は一冊の本 』
本を読もう。
もっと本を読もう。
もっともっと本を読もう。
書かれた文字だけが本ではない。
日の光、星の瞬き、鳥の声、
川の音だって、本なのだ。
ブナの林の静けさも、
ハナミズキの白い花々も、
おおきな孤独なケヤキの木も、本だ。
本でないものはない。
世界というのは開かれた本で、
その本は見えない言葉で書かれている。
ウルムチ、メッシナ、トンブクトゥ、
地図のうえの一点でしかない
遥かな国々の遥かな街々も、本だ。
そこに住む人びとの本が、街だ。
自由な雑踏が、本だ。
夜の窓の明かりの一つ一つが、本だ。
シカゴの先物市場の数字も、本だ。
ネフド砂漠の砂あらしも、本だ。
マヤの雨の神の閉じた二つの眼も、本だ。
人生という本を、人は胸に抱いている。
一個の人間は一冊の本なのだ。
記憶をなくした老人の表情も、本だ。
草原、雲、そして風。
黙って死んでゆくガゼルもヌーも、本だ。
権威をもたない尊厳が、すべてだ。
200億光年のなかの小さな星。
どんなことでもない。生きるとは、
考えることができるということだ。
本を読もう。
もっと本を読もう。
もっともっと本を読もう。
そのときの自分の気分にピッタリだったこんな作品も。
『 立ちどまる 』
立ちどまる。
足をとめると、
聴こえてくる声がある。
空の色のような声がある。
木のことば、水のことば、
雲のことばが聴こえますか?
石のことば、雨のことば、
草のことばを話せますか?
立ちどまらなければ
ゆけない場所がある。
何もないところにしか
見つけられないものがある。
他にも
自分自身が純化されていくような
作品がいっぱいだったので携帯メモに残して
ふと頭に思い浮かんだ人に送ったりしていました。
その日は仕事だった光葉もそのひとりなのですが
後から話しを聞いてビックリしました。
彼女の職場の同僚で
やたらと波長が合って同じ方を向いてるなぁ
と思わせてくれる “ たろりん ” ( ペンネーム )が
こんな話をしていたというのです。
「 何日か前に
聞かせてくれた話しなんだけど
たろりんが家で寝てると
赤ちゃんがたまに気になるものを持ってきて
たろりんの顔に落としていくらしいのね 」
「 で、この前はそれが
長田さんの “ 世界は一冊の本 ” だったんだって。
久しぶりに読んだらやっぱ素敵な本だったよ
って、たろりんが言ってたからビックリ… 」
おそるべし、たろう、いや、たろりん( ペンネーム )
けどこれは実際に何かが動き出した
何か面白い展開が始まったってことだと思うので
身を委ねて流れていきたいと思います。
『 暁 』があるのは、佐賀県・古湯温泉の温泉街。
気のすむまで本を読み
ゆっくり温泉に浸かっては
おいしいご飯とお酒を楽しむ
なんてこともできちゃう素敵な場所です。
糸島からも、車で40~50分くらい。
ぜひぜひ一緒に楽しみに来てくださいね。
( 暁の詳細は → こちら )
『 読書は
自分が自分にかける電話のようなもの。
自分で自分と話をする方法なのです 』
長田弘(詩人)