同じ食卓。
同じ食卓を囲むということ。
それって幸せのひとつの形だなぁと。
家族との
日々の食卓はもちろんですが、
仲のいい友だち家族みんなとの
外国で知り合った人の家での食事会、
親戚が集まってのお正月の集まり。
そこで生まれる
ふわっとした空気感が僕は大好きです。
フードディレクターの
“ 野村友里さん ” が監督を務めた
『 eatrip イートリップ 』
のラストで出演者みんなが集まって
楽しそうに食事をしてるシーンとかサイコー。
1週間ほど前、
糸島にある古民家ゲストハウス
『 いとより 』の主人 “ ナルミさん ” から
「 東京から移住検討してるご夫婦が
いとよりに宿泊されていて、
明日の夜シェアご飯会をやるんですけど、
もしお暇でしたら来られませんか? 」
とのお誘いいただき、喜び勇んで参加。
ナルミさんが糸島食材を調達してくれていて、
それをみんなで調理( 男子は主に配膳係 )
この日のメインはもつ鍋だったのですが、
それだけでなく、こーんなにも豪華な食事に!!
しかもこれ、ひとりたったの700円ですよ・・・
おーまいがーです、ほんとに。
この日は、移住検討のご夫婦をはじめ、
僕らと同じ時期に北海道から移住してきたご夫婦、
14年前に移住してきて落語会を主宰してる方、
大人気ブログ「 愛しの糸島ライフ 」を運営してる方、
とオモシロイ人たちが集まり、
とんでもなく日本酒が進む素敵な宵となりました。
糸島がさらに好きになっちゃったなー
東京からのご夫婦、移住してきてくれたら嬉しいなー
同じ食卓を囲んで、同じものを食べる。
そこで生まれるふわっとした空気感は、
「 安心感 」に近いものかもしれないです。
そう、安心感をいっぱい集めると
「 優しさ 」「 信頼 」「 冒険心 」
なんかが当たったりするんですよね。
同じ食卓を囲もうー
『 止めることのできない時間は
惜しむためだけでなく、美しい瞬間を
次々に手に入れるために流れていく 』
よしもとばなな( 作家 )
ご報告。
フェイスブックやインスタグラムでは
すでに報告させてもらっていたのですが、
この度、糸島のクラブチーム
「 エリア伊都 」のジュニアユース監督に
就任することとなりました。
昨年10月の
「 Futbol&Cafe mf 」のクローズから
昨年末2か月間の中南米ジャーニー、
今年3月のまさかの展開からの糸島移住、
そして、今回のジュニアユース監督就任。
1年の間にこれだけのことがあって、
しかもとんでもなく嬉しく展開していって、
ただただ関わってくれた全ての人に感謝です。
自分がこうなっていきたいってイメージして
切り開いていった道ではまったくないですからね。
周辺の人たちが生み出してくれた
小さな「 流れ 」に乗っていってみたら
辿り着いた先がここだったっていうだけで。
みなさん、本当にグラシアスです!!
これから本格的に関わっていく
「 中学生年代 」というカテゴリーは
身体的にも精神的にも大きく変化のある
とてもとても重要な時期だと思っています。
ここでどれだけ、
中学生たちの心に火を灯すことができるのか。
僕が42歳になった今も
フットボールに関わり続けていられるのは、
間違いなく中学生時代の恩師のおかげで、
そのときに灯してもらった火がなかったらきっと
今とはまったく違う人生を歩んでいたと思います。
“ ブンジ ” と呼ばれていた、今は亡き恩師。
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2005年の秋、
大好きな雑誌『 Coyote 』の
” 沢木耕太郎 ” 特集を読んだ。
そのなかに、
こんな言葉が書かれていた。
『 教師というのは、
学問上の何かを教えることも
重要だけれど、結局のところ、
若い人たちに情熱を伝えることが
いちばん大切なこと 』
俺は真っ先に
” あの人 ” のことを思い出した。
そして納得のもと、
その言葉をノートに書き写した。
初めての“あの人”の授業。
大柄というかちょっと太った“あの人”は、
何かへの自信からきてるんであろう
大きな張りのある声で自己紹介を始めた。
「これから君たちに
社会を教えていく
“ 吉田文治 ” と言います。
学生の時の友達からは
名前の読み方を変えて “ ブンジ ” って
あだ名で呼ばれてました。」
中学1年生だった俺は、
堅苦しそうなその本名よりも、
“ ブンジ ” って軽さのほうが気に入った。
年齢はまだ30歳あたり。
先生らしくない雰囲気にも興味を引かれた。
“ ブンジ ” は意外にも、
サッカー部の顧問だった。
あの体型からは想像できなかったが
よくよく話を聞いてみると自分では
本格的にはやってなかったとのこと。
一抹の不安を覚えた。
サッカー部の練習は、
練習というかシゴキだった。
ボールを使わず延々と走らされたり、
至近距離から思いっきり蹴られたボールを
クリアしなきゃいけなかったり。
そして、
笑顔を見せたり、手を抜いた瞬間、
とんでくるヘビー級のビンタ。
俺はキャプテンに指名され、
よくみんなを代表してビンタされたり、
キックされたり、バケツの水を浴びせられた。
まったくもって反抗の許されない世界。
だからうちらは決して
“ ブンジ先生 ” なんて呼べない。
有無を言わせず“吉田先生”だった。
一度うちの実家に
双子の弟“ルイ”あてに“吉田先生”から
電話がかかってきたことがある。
その電話に出たのは当時1年生で
やはりサッカー部だった三男の “ ソウ ” 。
“ ソウ ” は受話器を押さえることなくこう言った。
「 ルイー、ブンジから電話 」
電話に出た “ ルイ ” 。
“ 吉田先生 ” にこう言われた。
「 おい、ソウに代われ 」
受話器を受け取った
“ ソウ ” と “ 吉田先生 ” のやり取り。
「 おい、今ブンジって言ったろ。
言い直せ 」
「 ルイー、吉田先生から電話 」
そんな“ブンジ”が
最も影響を受けたものはやっぱり、
「 スクールウォーズ 」だったそうだ。
こんな辛くて理不尽な世界なのに、
どういうわけか辞めたいとは
ただの一度たりとも思わなかった。
それは残念ながら、
サッカーが好きだからという
綺麗な理由ではなかった気がする。
「 何か 」に引っ張られてただけな気がする。
でも中学生の時は、
その「 何か 」がわからなかった。
2007年6月5日の火曜日、
“ ブンジ ” が、ガンで亡くなってしまった。
俺は、ダメな教え子だった。
理不尽だった練習方法を否定して、
そうならないようにそうならないように、
ここまで指導者になってきた。
ある種の反面教師にしていた。
今の江戸川区の中学校の
サッカー部の練習を手伝ってくれ、
と言われていたのに数回しかいかなかった。
うちらの中学校サッカー部OBの
集まりを企画してくれと言われてたのに、
ついに一度も実現させなかった。
本当に、ダメな教え子だった。
でも “ ブンジ ” は俺に、
コスタリカ行きの話を嬉しそうに聞いてくれ、
Jリーグのコーチに無理矢理合わせてくれ、
その上、初めての講演会のチャンスまでくれた。
感謝の言葉しかない。
中学校の時、
「 情熱 」で引っ張ってくれて、
本当にありがとうございました。
俺が今の場所にいるのは
間違いなくそのおかげだから。
亡くなる2年ほど前、
あなたはこう話していましたね。
「 俺は学校のシステムに
馴染めない子こそ、
どうにかしたいんだ 」
そんな「 人への情熱 」を持った、
葬儀に2000人以上も来てしまう、
あなたみたいな人間に
俺もいつかなりたいです。
出逢ってくれたことに感謝。
また会いましょうね。
『 教師というのは、
学問上の何かを教えることも
重要だけれど、結局のところ、
若い人たちに情熱を伝えることが
いちばん大切なこと 』
作家・沢木耕太郎
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“ ブンジ ” からもらった「 情熱 」を
「 僕なりのやり方 」で子どもたちに伝えていくこと。
新たな冒険の始まりです。
『 平凡な教師は言って聞かせる。
よい教師は説明をする。
優秀な教師はやってみせる。
しかし最高の教師は
子どもの心に火をつける 』
ウィリアム・ウォード( 教育者 )
当たり前から特別へ。
台風接近中だった週末、
日曜日は暴風警報発令のため
残念ながら中止となってしまいましたが
土曜日は予定通りに活動ができました。
僕が担当したのは、
午前中に小学1年生の練習試合と
同じ会場で3・4 年生ごちゃまぜの紅白戦、
そして午後はジュニアユースの練習。
いやぁ、やっぱり、面白かったなー。
じつはこの2週間前から体調を崩し、
10日間くらいは発熱、胃痛、腹痛が重なり、
食事もスープぐらいしかとれずで外出もできず。
なので、久しぶりのグラウンドだったのです。
「 県立講倫館高校 」の選手権に行ったとき、
ケガで春からずっとチーム練習に入れてなかった
ある3年生がメンバー入りを果たしていて
ウォーミングアップにも加わっていました。
で、その合間に、こんな話をしてくれました。
「 ほんとーに幸せですよ。
メンバーに入れたこともですけど、
でも何より、またこうして
ボールを蹴られるようになったことが。
ケガをする前には感じたことなかったなぁ。
それに気づけただけでも
ケガをした意味があったのかなと思います。
サッカーって最高に楽しいですよね 」
イタリア・セリエAでいいスタートを切った
好調「 ラツィオ 」を引っ張る
イタリア代表FW “ インモービレ ” が
「 問題から何か
正しいレッスンをくみ取ることができれば、
困難は人を強くする 」
と言っていましたが、その高校生はまさに。
僕がグラウンドに行けなかった期間なんて
彼と比べたら全然たいしたことはないし、
精神的な負担なんか1億分の1くらいですが、
でもやっぱり同じような想いは感じました。
自分のなかで「 特別 」だったものが
いつからか「 当たり前 」になっていって、
何かのやむを得ない事情からそれがまた
「 特別 」なものだと感じられるようになる。
久しぶりに飲むことのできた
小学生の試合や紅白戦、
ジュニアユースの練習に行って
あらためて感じたことがあるのですが、
それについて書かれた記事を
外出できなかった期間に見つけたのでご紹介を。
特殊な環境下に身を置く日本の子供たちには
特に必要じゃないかなぁと思っています。
よかったら、読んでみてくださいね。
「 特殊な早期教育がなくても
子どもたちがすくすく育つように、
特殊な食事を工夫しなくても
楽しい食事であれば
子どもたちはすくすく育ちます。
子どもたちに与えられた “ 育つ力 ” です。
その原動力が自己肯定感です 」
「 遅かれ早かれ必要なときに、
出来ることはできるようになるんです。
逆に言うと、出来ないこと、嫌いなことは
できなくて良い、自信を失わなくて良い。
だからこそ、親としては子どもの
“ 出来ること ” “ 得意なこと ” を
探してあげることが大切です。
それが勉強なのか、
スポーツなのか、芸術なのか、
それともまったく
別のことなのかはわかりませんが、
絶対に何かあります。お友だちのことなのに、
涙を流して一緒に悲しんだり
喜んだりすることができる小学生がいます。
それは素晴らしい才能なのです 」
「 子どものうちに
成功体験を積んだ人間は強いですよ。
“ 自分大好き ” は
子どもたちにとって大きな力です 」
自分自身を「 当たり前 」にしないことって
すごく大事なのかもしれないですねー。
巡りあわせ。
3年生たち、お疲れー!
「 県立福岡講倫館高校 」サッカー部の
選手権大会・福岡予選の冒険は終わりました。
7月に一次予選を突破し、
24チームによって行われた
二次予選の初戦が先日行われました。
総合力で勝る相手にいきなり先制点を奪われ、
試合も支配され続け、苦しい展開に。
ただ後半になると、
前線からのプレッシングがハマり出し、
相手もいいイメージを描けなくなり、
チャンスを作り出せるようになっていきました。
ショートカウンターから、同点、そして、逆転。
その後も懸命に相手の攻撃を分断していたものの、
ちょっとした隙を突かれ、残り5分で同点に。
精神的なショックを負いながらも
なんとか耐えて延長戦には持ち込めましたが、
足を攣ってしまう選手が続出、
交代枠を使いきった後にケガ人出て
10人での戦いにもなってしまい万事休す。
延長の前後半で4ゴールを奪われ、
最終的には、2対6で敗れてしまいました。
でも、ほんっとよくやったと思います。
「 冷静 」が伴うプレーに関しては正直
まだまだ試合の中で表現できませんでしたが、
「 情熱 」が伴うプレーは素晴らしかった!
特に、
春先のインターハイのときと比べたら、
そこが大きく大きく大きく成長しました。
情熱を込めることが当たり前になったし、
そこでの身体の使い方も自然になったし。
ずっとくすぶっていた
ある3年生の爆発的な成長は、
自分の指導者人生の中で
ほとんど見たことのないほどの成長幅でした。
自分できっかけをつかんだ奴はやっぱ強いです。
僕自身は、
一次予選が終わってから
本格的に「 エリア伊都 」に関わるようになり、
講倫館の練習にほぼ行けなくなってしまったので、
貢献できた想いはとても薄いのですが、
関わらせてもらって本当に本当によかった!!
移住を決めた当初、じつは、
関わるチームは講倫館高校ではありませんでした。
移住を決め、物件を探しに糸島に来たとき、
ビーチカフェ「 Mr.Beach 」のオーナーに、
「 サッカーの指導していきたいなら、
僕の恩師をご紹介しましょうか?
福岡県の高体連で委員長やってた人です 」
そうして引き合わせてくれたのが福島先生でした。
そこでいろいろな話しをさせてもらって、
「 じゃあさ、
オレが教えてる高校でコーチをしてくれる?
お金はそこまで出せないと思うけど、
少しでも手伝ってくれたら嬉しいよ 」
とのお話をもらい、
その場でやらせてもらうことが決まったのでした。
それからしばらく経ち、
いよいよ移住となった時期。
福島先生から電話がありました。
「 コーチの話しさ、
本当に申し訳ないんだけど、
ちょっと厳しくなっちゃったんだ・・・
じつはいきなり異動を命じられて・・・
新しく移る学校でも
やってもらいたいとは思ってるんだけど、
学校までは遠いし、なにより、
お金がまったく払えないから・・・
移住して落ち着いたら、
とにかく一度会って話そうよ 」
という予期せぬ展開。
でも自分の中ではすぐに結論は出ました。
新しい学校のコーチをやらせてもらおう。
それは、
福島先生の魅力に僕が惚れこんで
ぜひ一緒にやってみたいと思ったこと、
どこの誰かもわからない僕を信じて
コーチのオファーをしてくれたこと、
そして「 Mr.Beach 」オーナーが
思いついたように僕に話してくれてから
ここまで流れるように話が進んできたことに
ご縁のようなものを感じたこと。
何がどうなっていくかは想像できなかったけど、
僕にとってはやらせてもらうことが自然でした。
そうして出逢うことになった
「 県立福岡講倫館高校 」サッカー部の
選手やマネージャー、スタッフの人たち。
「 福岡 」という土地で
初めて出逢ったフットボール仲間でした。
もし、
福島先生の異動がなかったら出逢うことはなかったし、
彼らが見せてくれた成長に触れることもできなかった。
この巡りあわせを大事に、これからも。
3年生たち、ひとまずお疲れさん、
さらなる楽しきフットボール人生を!!!
『 決心するということは、
単に始まりにすぎないということだった。
決心するということは、
まるで、急流に飛び込んで、
その時には夢にも思わなかった場所に
連れてゆかれるものなのだ 』
「 アルケミスト 」より
なんてHappyな。
移住して半年ちょっと経ちましたが、
糸島やっぱいいんすよ、大好きなんすよ。
糸島以外のところに行って
「 ああ、ここいいなぁ・・・ 」と思っても
帰り道には、糸島に戻ることに
ワクワクしてる自分がいるのです。
そんなとこで生活できてるって、なんてHappyな!
海や山の近くで生活するようになって
あらためて思うようになったのは、
自然はすべて変化していくんだということ、
そして変化はいつだってさり気ないんだということ。
自然だって、人間だって、
空だって、心だって、関係性だって、技術だって、
何かが変わっていくときはきっと、
「 あれ、ちょっと変わった・・? 」
くらいのスピード感がちょうどいいんだ。
糸島LOVE。
『 時はいつだって流れていて、
自分の根底のところ以外は
絶えず変わっている 』
よしもとばなな( 作家 )
冷静と情熱のあいだ。
朝から晩まで
まさにフットボール三昧となった日曜日。
低学年の子たちが参戦した
「 あめ玉フェスティバル 」
僕は午後の6年生の練習試合のためお昼に出発。
その途中、
他のコーチにオススメしてもらった
久留米市にある「 丸星 」というラーメン屋へ。
ここ、一発で好きになりました。
スープがたまらなく美味しくて
思わず飲み干してしまった豚骨ラーメン。
( しかも、1杯400円!! )
昭和感が漂いまくりの店内の雰囲気。
従業員は、活気あるおばちゃんたち。
「 牧のうどん 」でも思ったんですが、
おばちゃんが元気なお店って間違いないですよねー
( お店の詳細は → こちら )
練習試合の相手は、
糸島に移住してまだ間もない時期に
一度だけ練習見学をさせてもらったことのある
「 レアッシ福岡 」というチーム。
そのときに
お話しさせてもらったコーチの方とも再会、
なんか嬉しかったなぁ、こういう再会の仕方は。
試合は、20分×6本( A戦3本、B戦3本 )
“ 辻仁成さん ” の
小説のタイトルじゃないですけど、
試合をする上で「 冷静と情熱のあいだ 」に
自分を置くことってスゴク大事だと思うんですが、
ここ数試合を通して「 自陣 」や「 中盤 」での
「 冷静 」の部分は本当に良くなってきました。
味方や相手の動きを見ることが
少しずつできるようになってきて、
ノーアイデアでボールを離してしまうことが
( 見えてない怖さからくるクリア )
ほとんどなくなってきたなぁと。
ここ数試合でこの試合が一番
相手のプレッシャーも厳しかったですが、
それに屈することなくチャレンジできていて、
実際にやれた部分も多かったのは収穫でした。
ただ、
情熱が渦巻いている「 相手ゴール前 」
に関しては、まだまだこれから。
Poco a Poco( 少しずつ )ですね。
「 情熱 」の部分は本当によかったー!!
特に、ボール奪取のときの強度に関しては、
見ていて伝わってくるものがありました。
スペインリーグの解説をされている
サッカーライターの “ 小澤一郎さん ” が、
ちょっと前に「 J-GREEN堺 」で取材された
優勝したブラジルの「 クルゼイロ 」について
こんなことを発信していました。
そう、これ本当にそう思うのです。
ブラジルでもコスタリカでも
一緒にボールを蹴ってショックだったのは、
その部分に対するあまりの違いでした。
だから自分が指導者をしてからは、
ここをまず掘り起こしたいという想いと、
一生かけて耕していきたいな
という想いがあります。
ただ怖いなと思うのは、
実際に子供たちが爆発できていたとしても
「 どんな気持ちが出発点 」なのかという部分で。
もしそれが、
僕たち大人が結果を迫ることで生まれる
「 勝たなきゃいけない 」「 負けちゃいけない 」
が出発点になっていたとしたら、
その試合でのパッと見はいいかもしれないけど、
どこかで必ず枯れてしまうと思うんです、
個人としても、チームとしても。
最悪、
大好きなサッカーを辞めてしまうという展開に。
それだけは絶対にあっちゃいけない。
出発点はあくまで、
本人の内側から湧き出してくる
「 勝ちたい 」という自然な気持ち。
そこにアプローチすること、
似て非なるその想いの違いを見極めることは、
子供たちに関わる育成の指導者として
磨き続けないといけない能力なんだろうなぁ。
めっちゃ難しいんだよなー
でも絶対に諦めたくはないんだよなー
あ、そういえば、
お昼の「 丸星おばちゃんず 」はみんな
「 働かなきゃいけない 」じゃなかった気がする。
『 ジャムおじさんが言っていました。
心で見て、心で聴けば、
見えない本当のことが見えてくるんだって 』
「 アンパンマン 」より
フットボールデイ。
フットボール三昧だった、この日曜日。
午前中は低学年の子たちの大会
勝利するとあめ玉がもらえるという
「 あめ玉フェスティバル 」に、
午後は場所を移動しての6年生の練習試合、
夜は指導者の人たちとのフットサルでした。
たくさんの子供たちに関わりながら、
自分でもボールが蹴られるという幸せ。
あらためて思ったんですが、
コーチすることも、プレーすることも、
自分はどっちも好きなんだなぁと。
より客観的な視点になるコーチ、
より主観的な視点になるプレーヤ―。
そのどっち側から見ても、
フットボールというスポーツは、
やっぱりとんでもなく楽しくて、
で、そのどっちもやってると、
客観と主観がジワジワ入り交じってきて、
それまでの自分では見ることができなかった
新しい景色が見えるようになってきて。
不思議なのは、
新しい景色が見えるようになればなるほど、
「 答え 」が見つかっていく以上に、
「 問い 」が増えていくんだということ。
それがたまらなく嬉しいんだということ。
一生どっちもやっていきたい!やるべし。
今はコーチがメインなので、
たまにでもボールを蹴ることで
選手ならではの「 揺れ動きやすい心 」
そこに対しての想像力だけは
失わないようにしたいなって思います。
選手の心ってプロでさえも繊細だからー。
そう「 あめ玉フェスティバル 」で、
こんな微笑ましいシーンがありました。
他チーム同士の試合が終わると、
とりわけちっちゃな子供が、
嬉しそうにピョンピョンと飛び跳ねながら
ベンチで待つコーチのところへ。
「 コーチ、やった、やった!
初めてサッカーでゴール決めたよ!! 」
そう言ってコーチに抱きつきながら、
まだピョンピョンと飛び跳ねていました。
とんでもなく透明な笑顔で。
きっと、あの瞬間、
彼の中でサッカーが特別なものになったんだろうなぁ。
『 未来は今日始まる。明日始まるのではない 』